何度でもお気に召すまま、のっこのブログ

性愛セラピスト・心理・カウンセリング、自然の中から芽生えた、いのちと性と愛に関する記事を書きます。

子宮委員長はるちゃんの記事から、触発された『奪うことと、与えることは同義語』

私は

10年ほど前に離婚した。 
『心も身体も通わなくなっていた』から。
 
別れた夫とは長いこと、夫婦の関係が良くなかった。
結婚生活の中で、
 お互いの性的なエネルギーを循環させることが出来なかった。


私の中には、不承不承のセ☆クスは、
性的なエネルギーを与えるより、奪われる感じがあった。
 
性的エネルギーは、自然な生命エネルギーなので、
それを本当はただ受け取っていれば、与えたことになって、
循環出来たのだろうなと、今は思う。、
 
自分に対して大きな欠落感・不全感があって、
自分に愛を与えていなかったから、
私は自分から何かを奪っていたのだろう。
それは自己肯定感や自尊心、実存的価値だったりした。
 
それは、自分が本音を伝えることだったり、
素直に『愛されたい・大切にしてほしい』と言えることだったりした。
なので、別れた夫との間には、温かな会話も交流もなかった。
 
子供の頃の性的被害も、何かの拍子に起きてしまう家庭内のDVも、
当時は奪われ、傷ついたと思っていたが、


はるちゃんの言葉を借りると
奪われることって、そりゃ当時は辛かったけど、
どこかで望んでたことだったんだろうなって思います。


奪われた事への傷が癒えたら、
今度はそれが別の意味に変化した。
利用されるようになった。
利用されるだけ役に立つようになった。
しかも、私が私でいるだけで、
喜ばれるようになった。


確かに私も、それを感じる。


私が仕事でカウンセリングする時、
辛い体験を持つ、クライアントさんに対して、


私の傷が癒えて後のその場所は、
井戸のように清らかな水を満たし、
私や、他者の喉を潤し、
人生の旅で汚れてしまった、
手足や顔を、洗える場所になるような気がする。
 
はるちゃんが言うように、


私が私でいるだけで役に立ち、
利用されて、
喜ばれるようになれば良かったのだと、
やっと腑に落ちた今日です。
はるちゃん、ありがとうございました。